名港線六番町駅より徒歩3分 手もみボディケア・台湾式足つぼで本格ボディケア|名古屋市熱田区のてもみ処ひまわり

名古屋市熱田区のてもみ処ひまわり

052-886-3553

定休日/木曜日
営業時間/9:30~24:00(受付時間/9:00~22:00)
メールでのお問い合わせはこちら

ひまわりブログblog

内なる静寂|大空無雲 山下雷鳴

2025.12.5

表題の「大空無雲 山下雷鳴(たいくう むうん さんか らいめい)」は、私が座右の銘とする禅の言葉です。南無阿弥陀仏的な念仏のノリで、息を吸っているとき「大空無雲」、息を吐いているとき「山下雷鳴」と、心の中で唱えます。句のリズムが良く、呼吸を妨げることはありません。

この句は「高い山の下の方では、雷鳴が轟(とどろ)いているが、その雷雲の上に限りなく広がっている大空は雲一つなく晴れ渡っている」という大自然の様子を描写しています。言わんとする意味は、どのように深刻な、あるいは素晴らしい出来事があっても、それは全て「山下の雷鳴」としてあり、どのような暴風雨であっても、そのことで大空は少しも傷つかない。どのような素晴らしい天気であっても、大空は舞い上がることはない。

 

大空は「悟りの境地」を表します。しかし、大空が良くて暴風雨が悪いということではありません。大空の空気の流れが対流圏を作り、そこに雲や嵐や雷鳴を生み出しているのですから、本来、両者を切り離すことはできません。他ならぬ、大空のいのちの表現が、雲であり嵐であり雷鳴なのです。

 

▼意識を内に向けることの大切さ

 

現代の社会生活。「あれも、これも、しなければならない」と、心が外の世界に捉われて、忙しく日々を過ごすことは「山下雷鳴」に相当します。この目まぐるしく変化する、山下の雷鳴に気を捉われて、雷雲の上に限りなく広がっている、澄み切った大空の存在を、私たちはすっかり忘れてしまっています。これが私たちの「苦しみの根源」となります。

 

大空なくして山下の雷鳴は存在しません。大空の存在を忘れることは「本来の自己を見失うこと」に他なりません。

 

人の健康と幸福にとって最も大切なことは「リラックス」です。そして、リラックスするために最も大切なことは「内と外の意識のバランス」です。通信機器の発達した競争原理の社会では、天性のバランス感覚を持たない限り、意識が外の世界に捉われて「本来の自己」を見失います。意識のバランスが崩れると、心理的な葛藤や迷い、感情の抑圧傾向が強くなり、その結果、慢性的な凝りや病気を発症します。

 

意識のバランスを調えるには「意識を内に向ける」必要があります。たとえば「睡眠」は意識を内に向けています。視界を閉ざし、考えることを止めて、心を休めます心身に不調を感じる人は、この睡眠に代表される「内に向ける意識」が、決定的に不足しているのです。そのため、日中の活動時も、積極的に意識を内に向けて、バランスを調える必要があります。

人間を超越した活躍を見せる大谷翔平選手が、1日10時間眠ることは、よく知られています。天賦の才があれば、意識のバランス調整は感覚的に成し遂げられますが、才能とは無縁の一般人は、意識を内に向ける練習「反応しない練習」が必要です。睡眠に似た意識状態を作ること。外界の情報をスルーし、考えない技術を身に付けます。

 

てもみ処ひまわりは「身体の感覚を手掛かりに、意識を内に向けること」を手技を通して伝える店です。心と身体は繋がっており、心の葛藤や迷いは、慢性的な凝りや病気となって身体に現れます。その凝りや不調箇所を手掛かりに「意識を内に向ける」のです。意識を内に向けると、徐々にですが、身体はゆるみます。そのゆるみに比例して、心の葛藤や悩みも解消されます。この経験を通じて「内と外の意識のバランス」と「心と身体の繋がり」が理解されます。

 

そして、内に向ける意識が深まり、本来の自己内なる静寂」の存在に気づくことができれば、現実の生活がどれだけ切迫していようとも、心は穏やかでいられます。騒々しい山下の雷鳴は、雲上の大空に、影響を与えることはないからです。

 

現実の生活において、何かショッキングな出来事があっても、心の置きどころさえ分かっていれば、すぐに落ち着くことができます。落ち着くことができれば、人の悩みは全て解決します。いかなる状況下であっても、大空は、少しも傷つくことがないからです。

 

▼外の虚無感、内の充実感

 

仏教では「一切は空(幻想)である」と説きます。私が若い頃は、その意味がさっぱり分かりませんでした。「いや、そんな訳ないだろう!」と、突っ込みを入れて終了です。しかし、今では「確かにそうだ」と思えます。その理由は、私の心に絶えず去来した「虚無感」からです。

私は四十を過ぎるまで、生きることに虚しさを感じていました。その心理的背景の学術的見解は「深刻な劣等感を背景とした所属感の欠如」とあります。他者との比較の中で、深刻な劣等感を持った私は、富と名声を得ることで、自分という存在を肯定しようとしました。他者からの承認を得ることで、所属感を得ようとし、世間で推奨される、社会的成功を目指して邁進しました。しかし、一定の成果が得られても、一向に私の心が満たされることはありませんでした。

 

満たされるどころか、「もっともっと」という、さらなる欲望と飢餓感に捉われて、虚無感は以前にも増して強くなります。心を満たすために、努力をしているのに、虚しさが増すようでは本末転倒です。しかも、過度に緊張した身体は、外部からの刺激に対して心を制御することができません。不可抗力の心の反応に支配され、不自由極まりない束縛感、何かに追われるような感覚が、常に付きまといました。

 

他者の要望に従い、お金を稼ぎ、物を豊かにするほどに、自分という存在を感じることができなくなりました。

 

生きることの意味が感じられず、心の原動力を失ったとき、そもそも「努力の方向性が間違っている」ことに気づきました。しかしそれは「それまでの自分の人生を全否定する」ものでした。そのため、この事実に気づいたとしても、易々と間違いを認める訳にはいきません。しかし、それでも、自分の心の葛藤と虚無感を直視すると「一切は空(幻想)である」という仏教の教えが、妙に心に響くのでした。

 

それからというもの、私は「意識を内に向ける」こと、「心を観る」ことを意識しました。意識を内に向けると「心が満ちる」のを感じました。「あれも、これも、しなければならない」と、いつも外の世界に心が捉われていた頃は、終に満たされることのなかった私の心が「ただ静かに座り、意識を内に向ければ、満たされる」ことに気づきました。

 

▼真実のある方向性

 

意識が外の世界に捉われ、慌ただしく生きたときの「虚無感」。そして、意識を内に向けたときの「充実感」。この両者を体験すると、何かこの世界には「現実よりも真実味のある、もう1つ上の次元が存在する」という認識が生まれます。そしてこの「もう1つ上の次元」とは、先述の禅語、「大空無雲」に相当するものであり、一方、私たちが認識する現実世界の喧騒は「山下雷鳴」です。

 

大空は不変で、その性質は変わることがありません。一方、山下の雷鳴は、絶えず変化します。大空と山下は「一対の関係」にありますが、不変の性質を持つ大空の方が「根源的存在」となります。大空は独立して存在できますが、山下の雷鳴は、大空なくして存在できません。

 

変化が表現される、その背景には、必ず「不変の静寂」が在ります。そして「不変の静寂を持つ側が根源的な存在」となります。

たとえば、3次元世界を現実だと認知する私たちは、映画や漫画など2次元で表現されるものを「虚像」と認識します。

 

2次元の映像世界で、どれだけ派手なアクションが繰り広げられようとも、3次元の存在である映画のスクリーンには、何の変化も影響もありません。漫画の中で、どれだけ人物と空間が緻密に描き分けられ、めくるめく変化が与えられようとも、3次元では、それらを構成する要素は全て「紙とインク」であり「同じ材質」です。2次元世界にとって3次元の世界は、干渉することのできない「不変の静寂」であり「根元的存在」です。

 

この「2次元と3次元」と同様の相互関係が「3次元と4次元」の間にも存在します。「不変の静寂」という根源なくして、変化は表現されません。

 

映画館のスクリーンに、記録媒体に畳み込まれた情報が、壮大な物語として表現されるのと同様に、時間も空間も畳み込まれた「4次元の存在」から、私たちがリアルだと認識する3次元世界が、壮大な物語として表現されます。

 

そして、この「4次元の視点」に立てば、3次元で表現されるものは全て「同じ材質」であり「虚像」なのです。物理学なら「素粒子」、中国なら「氣」、インドなら「プラーナ」と呼ばれる、同質素材の中で表現される、実体のない幻想です。

 

人間は意識を外に向けると、1つ下の2次元の世界を認識します。それと似た原理で、意識を内に向けると、1つ上の4次元の世界を認識することができるのです。

 

▼物理学者の見解

 

霊的次元の極みに達した仙人のみが、そうした境地に至るのではありません。理性という自意識を働かせて、真理を探究した物理学者も、同じ見解に達します。「相対性の極致は同じ」なのです。アインシュタインが友人との書簡の中で、次の言葉を残していることは、良く知られています。

 

「我々、物理学者にとっては、過去、現在、未来というものは幻想なのです。それが、どれほど確固としたもののように見えても、幻想にすぎないのです」

 

高名な物理学者のデビッド・ボームも「ホログラフィー宇宙モデル」という仮説を立て、同様の見解を示します。私たちの眼には映らない、もう1つの世界に、この世界の全ての物質、精神、時間、空間などが全体として畳み込まれて、それは、この世界と分離不可能だ、と述べています。

 

▼苦しみの原因を自らの内に求める

 

「大空無雲 山下雷鳴」という禅語から「内なる静寂」というテーマを展開しましたが、下記の松尾芭蕉の俳句も、本質は同じです。

 

閑(しずけ)さや 岩にしみ入る 蝉の声

 

古池や 蛙飛び込む 水の音

 

どちらの句にも「不変の静寂」と「無常の変化」が同居しています。1000を超える芭蕉の俳句の中でも、とりわけこの二句が傑作とされるのは、普遍の真理が表現されているためです。

 

物理学者も松尾芭蕉も、大いに自らの関心事に熱中しています。悟りを開いた聖者のように、無私無欲という訳ではありません。よって私見としては、苦しみの原因を、他者や環境に求めず、自らの内に求めた者は「不変の静寂」を認識することができると思います。

 

▼すっぱいブドウな我が半生

 

私の実体験を話すと、苦しみの原因を他者や環境のせいにせず、自らの内に求めるには、相当な覚悟を必要とします。私たちは、イソップ童話「すっぱいブドウ」で見られる「後付けの合理化」を無意識にやりがちです。下記はその構図となります。

 

現実の気持ち=「ブドウを食べたい」

現実の結果=「飛び上がったけど取れなかった」

架空の価値観1=「ブドウはすっぱい」

架空の価値観2=「ブドウを食べないことは良いことだ」

 

つまり、惨めな「現実の結果」を受け止められないから、無理やり非現実的な架空の価値観を作り出し、自分を満足させる構図です。この無意識下の「妄想」に逃げず、現実の自分と向き合うには、相当な人生経験と覚悟を必要とします。

そもそも、架空の価値観に捉われること、「妄想」は無自覚に起こります。すっぱいブドウの構図で、後付けで合理化された価値観を、本人は「疑いようもなく正しい」と信じきっています。そのため、当人にその自覚はありません。

 

たとえば私の場合、幼少の頃より「人の気持ちが分からなかった」です。なぜ人の気持ちが分からないのか、納得する理由を求めて、学術書を紐解き調べ上げた結果、自分が発達障害のグレーゾーンで「アスペルガー障害」に該当することが分かりました。

 

さらにそのことを裏付ける理由として、私は東洋医学でいう氣の流れ「経絡が視える」という第六感、自閉症感覚を持っていました。そのため「場の空気が読めなくても仕方がない」と、長らくそのように自分のことを解釈していました。

 

しかし、その解釈は間違っていたのです。「自分は発達障害かも知れない」と自らを疑い、学術書を紐解き、学説に納得するまでにも、相当な覚悟と時間を要しているのですが、その過程すら、イソップ童話のすっぱいブドウ「後付けの合理化」の範疇だったのです。

 

真実は「自分の本当の気持ちすら分かっていなかった」のです。

自分の気持ちすら分からない人間が、どうして他人の気持ちが分かりましょうか?

 

幼少の頃より、勉強ができず、運動ができず、場の空気すら読むことのできない私は、深刻な劣等感を抱いていました。その惨めな「現実の結果」を受け止められないために、「自分は特別」という自己愛的な人格と、「私は正しい」「〇〇だから仕方がない」という非現実的な架空の価値観を作り出し、妄想に捉われ続けた人生を歩んでいたのです。

 

私は、本当の自分と向き合うことを、幼少の頃より止めてしまっていたのです。あまりにも早期に、自分を偽ったため、偽った自分を本当だと思い込んでいたのです。イソップ童話の「すっぱいブドウ」は、丸ごと私の半生に当てはまります。部分ではなく人生全体です。これが私の苦しみの根源であり、虚無感の正体だったのです。

 

▼心の葛藤・抑圧した感情と向き合う

 

本当の自分の気持ちをごまかし続けた「心の葛藤・抑圧した感情」は、身体の不調や凝りとして、身体に現れています。その身体が発するメッセージを無視せず、真摯に向き合います。目を閉じて、外界への心の反応をなるべく遮断し、身体の不調箇所を手掛かりに、意識を内に向けるのです。

 

私の場合、瞑想1年目は、要領が掴めず、ただ辛いばかりでした。2年目にしてコツを掴み「実存的変容」と呼ばれる内的変化が起きて「心と体が一致」しました。心の迷いや葛藤がなくなり、生きやすくなりました。そして、丸3年を費やしたとき「内なる静寂」と呼べるものを、意識の内側にハッキリと認識するに至りました。

 

この「内なる静寂」を認識すると「最初から心が満ちている」のです。人間の活動は突き詰めると「心を満たすため」だと言えます。人と競って勝ちたいのも、夢を叶えたいのも「心を満たすため」だと言えます。しかし、最初から心が満ちていると、ただ「ありのままを受容するのみ」となります。他者と比較することなく、外界の刺激に反応することなく、満ち足りた自分の人生を歩むことができるのです。

 

それは本当に価値あるものです。何よりも価値があると私の口からは断言できます。心の「充実感」、人生の「真実性」を実感できます。本当の自分「ブレない自己」が確立されます。外界の刺激に反応せず、核となる自己の欲求に従うことは、確かな存在意義を実感できるのです。グッと力強く拳を握り「ここから私の人生が始まる」と思えます。

 

▼人生における致命的な分岐点

 

意識を内に向けて「内なる静寂」という根源的存在を認知すると、現実世界を、冷静に、動揺することなく、観察する視点が生まれます。

 

外部からの刺激に対し、心が無条件に反応して、振り回されることがなくなります。五感の反応に振り回されない「独立自由の精神性」が生まれ、心は軽やかで、健やかな毎日が過ごせるようになります。

 

下図は、私が実体験を通して理解した「内と外の意識の相違」です。

内に向ける意識が深まると「無差別平等の世界観」となります。それは、人間が作った架空の価値観「道徳」から、主張するのではありません。映画を映し出すスクリーンが等しく同じ材質であるのと同じように、また、映し出される映像の全てが虚像であるのと同じように、人間も動物も虫も空間も「全て同じ素材であり虚像」という「歪みのない認知」から生まれる世界観です。

 

幸福を実感する上で最も大切なことは「意識を内に向ける」ことです。言い換えると「いま、ここに、気づく」こと。この気づきがなければ、どれだけ富と名声を得ようとも、不安や恐怖、底知れぬ虚無感から抜け出すことはできません。

 

「自分軸」の人生、本当の自己表現と創造は、1次元上の「不変の静寂」を知ることから始まります。私たちの人生における致命的な分岐点は「意識を内に向けるか否か」にあると、私は理解します。