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内なる静けさ|大空無雲 山下雷鳴

2025.12.5

表題の「大空無雲 山下雷鳴(たいくう むうん さんか らいめい)」は、私が座右の銘とする禅の言葉です。南無阿弥陀仏的な念仏のノリで、息を吐いているとき「大空無雲」、息を吸っているとき「山下雷鳴」と、心の中で唱えます。句のリズムが良く、呼吸を妨げることはありません。

この句は「高い山の下の方では、雷鳴が轟(とどろ)いているが、その雷雲の上に限りなく広がっている大空は雲一つなく晴れ渡っている」という大自然の様子を描写しています。言わんとする意味は、どのように深刻な、あるいは素晴らしい出来事があっても、それは全て「山下の雷鳴」としてあり、どのような暴風雨であっても、そのことで大空は少しも傷つかない。どのような素晴らしい天気であっても、大空は舞い上がることはない。

 

大空は「悟りの境地」を表します。しかし、大空が良くて暴風雨が悪いということではありません。大空の空気の流れが対流圏を作り、そこに雲や嵐や雷鳴を生み出しているのですから、本来、両者を切り離すことはできません。他ならぬ、大空のいのちの表現が、雲であり嵐であり雷鳴なのです。

 

▼意識を内に向けることの大切さ

 

現代の社会生活。「あれも、これも、しなければならない」と、心が外の世界に捉われて、忙しく日々を過ごすことは「山下雷鳴」に相当します。この目まぐるしく変化する、山下の雷鳴に気を取られ過ぎて、雷雲の上に限りなく広がっている、澄み切った大空の存在を、私たちはすっかり忘れてしまっています。これが私たちの「苦しみの根源」です。

 

大空なくして山下の雷鳴は存在しません。大空の存在を忘れることは「本来の自己を見失うこと」に他なりません。

 

私たちの健康にとって一番大切なことは「心と身体を一致させる」ことです。心が外の世界に捉われ過ぎると、本来の自己との間にズレが生じます。心理的な葛藤や迷い、感情の抑圧傾向が強くなり、その結果、慢性的な凝りや病気を発症します。

 

てもみ処ひまわりは「身体の感覚を手掛かりに、意識を内に向けること」を手技を通して伝える店です。心と身体は繋がっており、心の葛藤や迷いが、慢性的な凝りや病気となって身体に現れます。それゆえ、身体の凝りや不調箇所を手掛かりに、意識を内に向けるのです。意識を内に向けると、徐々にですが、身体の凝りは弛みます。身体の弛みに比例して、心の葛藤や迷いも解消されるのです。

 

さらに、内に向ける意識が深まり「本来の自己」に気づくことができれば、どれだけ現実の生活が切迫していようとも、心は穏やかでいられます。騒々しい山下の雷鳴は、雲上の大空に、影響を与えることはないからです。

 

現実の生活において、何かショッキングな出来事があっても、心の置きどころさえ分かっていれば、すぐに落ち着くことができます。落ち着くことができれば、人の悩みの全ては解決します。いかなる状況下であっても、大空は、少しも傷つくことがないためです。

 

▼外の虚無感、内の充実感

 

仏教では「一切は空(幻想)である」と説きます。私が若い頃は、その意味がさっぱり分かりませんでした。「いや、そんな訳ないだろう!」と突っ込みを入れて終了です。しかし、今では「確かにそうだ」と思えます。その理由は、私の心に絶えず去来した「虚無感」からです。

 

私は四十を過ぎるまで、生きることの意味が分からなかったです。その心理的背景の学術的見解は「深刻な劣等感を背景とした所属感の欠如」とあります。他者との比較の中で、深刻な劣等感を持った私は、富と名声を得ることで、自分という存在を肯定しようとしました。他者からの承認を得ることで、所属感を得ようとし、世間で推奨される、社会的成功を目指して邁進しました。しかし、一定の成果が得られても、一向に私の心が満たされることはありませんでした。

 

満たされるどころか、「もっともっと」という、さらなる渇望と飢餓感が生じて、虚無感は、以前にも増して強くなります。心を満たすために、努力をしているのに、虚無感が強くなるようでは本末転倒です。しかも、外部からの刺激に対し、自分の心を制御することができません。不可抗力の心の反応に支配され、不自由極まりない束縛感、何かに追われるような感覚が、常に付きまといました。

 

私の場合、他者の要望に従い、お金を稼ぎ、物を豊かにするほどに、自分という存在を感じることができなくなりました。

 

自分の存在意義が見出せず、心の原動力を失うことで、そもそも「努力の方向性が間違っている」ことに気づきました。しかしそれは「それまでの自分の人生を全否定する」ものでした。そのため、事実に気づいたとしても、すぐに間違いを認める訳にはいきません。しかし、それでも、自分の心の葛藤と虚無感を直視すると「一切は空(幻想)である」という仏教の教えが、妙に心に響くのでした。

 

それからというもの、私は「意識を内に向ける」ことを意識しました。意識を内に向けると「心が満ちる」のを感じました。「あれも、これも、しなければならない」と、いつも外の世界に心が捉われていた頃は、終に満たされることのなかった私の心が「ただ静かに座り、意識を内に向ければ、満たされる」ことに気づきました。

 

▼真実のある方向性

 

意識が外の世界に捉われ、慌ただしく生きたときの「虚無感」。そして、意識を内に向けたときの「充実感」。この両者を体験すると、何かこの世界には「現実よりも真実味のある、もう1つ上の次元が存在する」という認識が生まれます。そしてこの「もう1つ上の次元」とは、先述の禅語、「大空無雲」に相当するものであり、私たちが認識する現実世界の喧騒は「山下雷鳴」です。

 

大空は不変で、その性質は変わることがありません。一方、山下の雷鳴は、絶えず変化します。大空と山下は「一対の関係」にありますが、不変の性質を持つ大空の方が「根源」となります。大空は独立して存在できますが、山下の雷鳴は、大空なくして存在できません。

 

変化が表現される、その背景には、必ず「不変の静寂」が在り、「不変の静寂」を持つ側が、根源的な存在となります。

たとえば、3次元世界を現実だと認知する私たちは、映画や漫画など2次元で表現されるものを「虚像」と認識します。

 

2次元の映像世界で、どれだけ派手なアクションが繰り広げられようとも、3次元の存在である映画のスクリーンには、何の変化も影響もありません。漫画の中で、どれだけ人物と空間が緻密に描き分けられ、めくるめく変化が与えられようとも、3次元では、それらを構成する要素は全て「紙とインク」であり「同じ材質」です。

 

この「2次元と3次元」と同様の相互関係が「3次元と4次元」の間にも存在します。「不変の静寂」という根源なくして、変化は表現されません。

 

映画館のスクリーンに、記録媒体に畳み込まれた情報が、壮大な物語として表現されるのと同様に、時間も空間も畳み込まれた「4次元の存在」から、私たちがリアルだと認識する3次元世界が、壮大な物語として表現されます。

 

そして、この「4次元の視点」に立てば、3次元で表現されるものは全て「同じ材質」であり「虚像」なのです。物理学なら「素粒子」、中国なら「氣」、インドなら「プラーナ」と呼ばれる、同質素材の中で表現される、実体のない幻想です。

 

私たちは、意識を外に向けると、1つ下の2次元の世界を認識します。それと同じ原理で、意識を内に向けると、1つ上の4次元の世界を認識することができるのです。

 

▼自分と向き合う者は認識できる

 

霊的次元の極みに達した仙人のみが、そうした境地に至るのではありません。理性という自意識を働かせて、真理を探究した物理学者も、同じ見解に達します。「相対性の極致は同じ」なのです。アインシュタインが友人との書簡の中で、次の言葉を残していることは、良く知られています。

 

「我々、物理学者にとっては、過去、現在、未来というものは幻想なのです。それが、どれほど確固としたもののように見えても、幻想にすぎないのです」

 

高名な物理学者のデビッド・ボームも「ホログラフィー宇宙モデル」という仮説を立て、同様の見解を示します。私たちの眼には映らない、もう1つの世界に、この世界の全ての物質、精神、時間、空間などが全体として畳み込まれて、それは、この世界と分離不可能だ、と述べています。

 

「大空無雲 山下雷鳴」という禅語から「内なる静寂」というテーマを切り出しましたが、下記の松尾芭蕉の俳句も、本質は同じです。

 

閑(しずけ)さや 岩にしみ入る 蝉の声

 

この句には「不変の静寂と無常の変化」が同居しています。1000を超える芭蕉の俳句の中でも、とりわけこの句が傑作とされるのは、普遍の真理を表現しているためです。

 

物理学者も松尾芭蕉も、大いに自らの関心事に熱中し、個人の欲望に忠実です。自らと真剣に向き合う者なら、いかなる分野からでも「内なる静寂」を認識することは可能です。

 

▼人生における致命的な分岐点

 

意識を内に向けて「不変の静寂」という根源的存在を認知すると、現実世界を、冷静に、動揺することなく、観察する視点が生まれます。

 

外部からの刺激に対し、心が無条件に反応して、振り回されることがなくなります。五感からの刺激に振り回されない「独立自由の精神性」が生まれ、心は軽やかで、健やかな毎日が過ごせるようになります。

 

下図は、私が実体験を通して理解した「内と外の意識の相違」です。

内に向ける意識が深まると「無差別平等の世界観」となります。これは、人間が作った架空の価値観「道徳」から、主張するのではありません。映画を映し出すスクリーンが等しく同じ材質であるのと同じように、また、映し出される映像の全てが虚像であるのと同じように、人間も動物も虫も空間も「全て同じ素材であり虚像」という「歪みのない認知」から生まれる世界観です。

 

幸福を実感する上で最も大切なことは「意識を内に向ける」ことです。言い換えると「いま、ここに、気づく」こと。この気づきがなければ、どれだけ富と名声を得ようとも、不安や恐怖、底知れぬ虚無感から抜け出すことはできません。

 

「自分軸」の人生、本当の自己表現と創造は、1次元上の「不変の静寂」を知ることから始まります。私たちの人生における致命的な分岐点は「意識を内に向けるか否か」であると、私は理解します。