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ひまわりブログblog

ハタ・ヨーガの呼吸法

2025.10.14

▼安らぎこそ道である

 

私たちの健康にとって最も大切なことは「リラックス」です。リラックスさえ実感できれば、後は十分な睡眠と栄養を取れば、心も体も健康でいられます。

リラックスする上で最も大切なことは「自分と向き合うこと」です。現代社会を生きる多くの方が、自分を見失っています。あれもこれも、しなければならないと、心は常に自分以外の対象に向けられています。たとえ休憩中であっても、心は過去の後悔や未来への不安に捉われて「心、ここに、あらず」の状態です。

 

てもみ処ひまわりは、店主が日々実践する健康法を手技を通して伝える店です。当店の「足もみ」は痛くて評判ですが、肉体的苦痛の中にも安らぎがあります。簡単で分かりやすく効果の実感できる「リラックス法」を手技を通して伝えます。

 

▼支持基盤はハタ・ヨーガ

 

整体を生業にして20年。様々な健康法と向き合た店主が、最も支持する健康法は「ハタ・ヨーガ」です。ハタ・ヨーガの「ハタ」はサンスクリット語で「力」を意味します。力で行うヨーガ。別名「苦行のヨーガ」と呼ばれる、肉体的苦痛を伴う身体技法を健康法の母体としています。

店主がハタ・ヨーガを支持する理由は「分かりやすい」からです。物事を理解するには「しっかりとした手応えがある」ことが大切ですが、ハタ・ヨーガには「ハッキリした身体的な手掛かり」があります。ここでいう分かりやすさは「続けやすさ」と言い換えることもできます。

 

ハタ・ヨーガを始める前、店主は自らの心を調えるために「仏教の瞑想法」に取り組みました。仏教では「無我の境地で座ること」を初学者にも伝えますが、欲望に捉われた世俗の人間が、いきなり「何も考えず座ること」は、土台無理な話です。

 

とりあえず見よう見まねで座ったものの、足は痛いし、雑念に捉われ「心を調える」どころではありません。仏教の瞑想法に取り組んで挫折した経験は、店主以外にも多いのではないかと思います。あまりに洗練された技術というのは、初学者が始めるには敷居が高く、挫折しやすいです。

 

仏教の開祖お釈迦様は、仏教を開く前の6年間「苦行」に取り組みました。お釈迦様が「悟り」に達する前段階の方が、初学者には学びやすいのでは?と思ったことが、店主がハタ・ヨーガを始めたキッカケです。

 

▼「いま、ここに、気づく」ムーラ・バンダ

 

ここでは店主の健康法の核心である「ハタ・ヨーガの呼吸法」を紹介します。ハタ・ヨーガで最も重要な技術のひとつが「ムーラ・バンダ」です。ムーラはサンスクリット語で「根」という意味で、バンダは「締める」、根を締める。すなわち、身体の「肛門を締める」技術です。

 

ムーラ・バンダはハタ・ヨーガの根幹となる技術で、ここからヨーガの奥義へと発展しますが、ここで店主が強調したいのはムーラ・バンダから生まれる「いま」「ここ」の「気づき」です。

 

私たちの体調不良の根本には「心」が関わります。大病の背景には必ずと言っていいほど「ネガティブな思考や感情」があります。過去の後悔や未来への恐れは、いつの間にか捉われている「思考の連鎖」によって引き起こされます。

 

この私たちの心を苦しめる「思考の連鎖」を断ち切るのに、最も有効な手段が「マインド・フルネス」。すなわち「今、この瞬間の、気づき」です。

 

東洋哲学の最も大切な教えは「いま、ここに、気づく」こと。この「いま、ここ」の「気づき」が、ムーラ・バンダにより「圧倒的な肉体的手応えを伴って実感できる」のです。

 

▼呼吸を意識するマインド・フルネス

 

仏教のマインド・フルネスの極意は「呼吸に気づく」ことです。

 

息を吸いながら、吸っていることに気づく。息を吐きながら、吐いていることに気づく。

 

自分の吸う息と吐く息を最初から最後まで辿っていると、それだけで思考は働かなくなります。「考えることを止めて心を休ませる」のは、素晴らしいことです。しかし、言葉にすると簡単ですが、これを実践するのは大変難しい。何しろ、呼吸に意識を向けても、手応えがないため、いつの間にか意識はどこかへ行ってしまうのです。

 

また仏教が伝える瞑想法には「ラベリング」という技術があります。息を吸っている時は「吸っている」、吐いているときは「吐いている」と、心の中で行為を言語化して、呼吸に対する意識を高めます。しかしラベリングを併用しても、何かしらの手応えを呼吸から実感するのは難しいです。

 

仏教が伝える瞑想法は、静かで、洗練されて、美しいのですが、玉のように美しいゆえ「引っ掛かり」がなく、雲を掴むような印象です。見ることも、触れることもできない「呼吸」から「気づき」を得るのは、初学者には無理難題と言えます。

 

▼呼吸の停止点を意識する

 

そこで、肉体的実感が伴うハタ・ヨーガの出番です。ハタ・ヨーガの瞑想法は「呼吸の停止点」を意識します。

 

呼吸は「吸う」と「吐く」だけではありません。「吸う」と「吐く」のあいだには「止まる」があり、「吐く」と「吸う」のあいだには「止まる」があります。「吸って、止まる、吐いて、止まる」の繰り返しが呼吸で、多くの人は意識していませんが、息が止まっている「停止点」があるのです。この呼吸の停止点は「呼吸の転換点」でもあり、この瞬間に気づくことが瞑想ではとても重要な要素になってきます。

 

この呼吸の停止点を意識して、先ほど紹介した「ムーラ・バンダ」を掛けます。呼気から吸気に切り替わるタイミングを意識して「肛門を締める」。また吸気から呼気に切り替わるタイミングを意識して「肛門を締める」。吸って(キュッと締める)吐いて(キュッと締める)と、リズミカルにムーラ・バンダを掛け続けます。

 

ムーラ・バンダには圧倒的な肉体的手応えがあります。妄想に陥った意識状態にあっても、肛門を締めるという圧倒的な現実感覚により「いま、ここの、自分」に気づき、心と体を一致させることができます。

 

▼力を込めた反動で息が深まる

 

また、ムーラ・バンダにより身体の内側から力を込めた反動で、呼吸の幅が広がり、息が深くなります。この原理を理解するには、小さな子どもをブランコに乗せて、遊んでいる様子を想像してみてください。

ブランコが振り子のように前後に揺れています。後ろに揺れたブランコを、前に動作が切り替わるタイミングで、ブランコを押すという「人為的な力」を加えます。すると勢いが増して、振れ幅が大きくなります。この「然るべきタイミングで力を入れる」のと同様の働きを、ムーラ・バンダは果たします。

 

呼吸の停止点を意識し、ムーラ・バンダを掛けることにより「いま、ここの、気づき」が得られます。さらに、その人為的な力の反動で「呼吸が深く」なります。この2つの効果を実感できれば、それはもう立派なマインド・フルネス、瞑想と呼べる代物です。

 

▼ソーハム呼吸法を併用する

 

上述の「ハタ・ヨーガの呼吸法」に、さらにマントラ(真言)を加えます。ヨーガには「ソーハム」という有名なマントラがあります。「So(私)ham(彼)、私は彼の者である」という意味です。絶対真理の真言を呼吸のリズムと合わせて併用します。息を吸っているときは「ソー」と心で唱え、息を吐いているときは「ハーン(ハムの変化形)」と心で唱えます。

 

これは仏教でいう「ラベリングと同様の効果」をもたらし、呼吸に対する意識を高めます。またスピリチュアルな意義として、今も昔も世界中の人達が「ソーハン、ソーハン」とマントラを唱えており「意識の共鳴が起こりやすい」です。

 

▼ウジャイー呼吸法を併用する

 

ハタ・ヨーガをラーメンに例えると「トッピングとなる具材」がたくさんあります。ウジャイー呼吸法(勝利の呼吸法)も、欠かすことのできないトッピングメニューの1つです。ウジャイー呼吸法は、息を細く長く吐くための技術です。

 

舌先を前歯の付け根に付けると、喉が狭くなりますが、喉を狭くすることで、自然と吐く息は長くなります。また、舌先が軽い緊張状態となり、唾液の分泌が促され、唾を飲み込む回数が増えます。これは小まめに水を飲むのと同様の効用があり、自律神経が整います。

 

▼心と体が一致する「実存的変容」

 

「ハタ・ヨーガの呼吸法」はいつどんな時でも実践できます。店主は眠る以外の時間は、常に意識して取り組んでいます。いつでもどこでも「ソーハン、ソーハン」と心の中でマントラを唱えながら、呼吸に意識を向け、さらに呼吸の停止点ではムーラ・バンダを掛ける、という生活を送っています。

 

マインド・フルネスが生活に馴染んでくると「私が、私が」と主張する自意識の働きが弱まり、あるとき、心の在り方が大きく変わります。この変化を学術用語で「実存的変容」、仏教では「小悟」、スピリチュアル系では「目覚め」と呼び、端的に言えば「心と体が一致する」ようになります。実存的変容後は、心の迷いと葛藤がなくなり、自分に嘘をつく判断ができなくなります。

 

「心と体が一致する」実存的変容は、癌などの難病すら治る可能性を秘めています。なぜなら大きな病気の背景には「心と体の不一致」があり、自分の本心を偽り続けた結果だからです。

 

▼安らぎへの理解が深まる

 

日々「ハタ・ヨーガの呼吸法」に取り組むマインド・フルネスな生活を送ると、さらなる変化をもたらします。東洋の絶対真理「悟りの境地」が、それとなく分かってきます。

 

東洋の「絶対真理」は、例えるなら「球体の中心点」のようなものです。この球体の中心点を説明するには「前でもなければ、後ろでもない」「上でもなければ、下でもない」「左でもなければ、右でもない」といった言い回しになりますが、同様に、東洋の真理は「~に非ず、~に非ず」と説きます。また「急がば回れ」や「柔よく剛を制す」「学ばないことを学ぶ」といった格言が示すように、矛盾した言葉を並べて、この「球体の中心点」の存在を伝えようとします。

 

この「球体の中心点」のような場所が、実は、私たちの身体にも存在します。

 

店主は、その場所を「ムーラ・バンダ」によって発見しました。ムーラ・バンダをより詳しく説明すると、肛門を締めるだけではなく、その締めた力を恥骨に向けて引き上げます。締めるのではなく「締め上げる」と言った方が、より精妙なムーラ・バンダの説明となります。

 

この肛門を締め上げるという行為をよく観察すると、力が入っているのは、肛門だけではないことが分かります。太ももや下腹にも力が入ります。しかし、ムーラ・バンダの修練を積み重ねると、その常識は覆ります。入れたはずの力がフッと消えて無くなるのです。実際に体験すると「そんな馬鹿な!」と思わず声を上げるほどの衝撃が全身を走り抜けます。

 

▼実在するファンタジー「臍下の一点」

 

この「力を入れても入らない場所」を、合気道十段の達人、藤平光一先生は「氣の呼吸法」という著書の中で「臍下(せいか)の一点」と呼び、「底なしの魔法の壺」と評しています。

武道の達人をして「魔法の壺」と評するファンタジーが、私たちの下腹には実在します。ファンタジーは実在しないからファンタジーでは?という野暮な指摘は受け付けません。対立する概念すら超越するのが、東洋の真理の在り方なのです。

 

どんなに凄い圧力を掛けても「球体の中心点」で、その圧力を受け止めるなら、球体には何の変化も生じません。この「力を加えても変化の生じない無限小の一点」、宇宙に例えると「ブラックホールのような場所」が、身体における臍下の一点です。

 

この「臍下の一点」を独楽に例えた場合、独楽の回転を支える最下部がその一点に相当します。

独楽を回すと、全ての独楽の重みと激しい運動エネルギーを、針の穴よりも小さな一点で以て支えます。それほど集約したエネルギーを一点で受け留めながら、独楽は静止したような涼しい状態を保ちます。

 

また、この「底なしの魔法の壺」の実在は、サッカー選手にも見出すことができます。飛んでくるボールをまともに受ければ、人間の方が吹き飛ぶぐらいの威力があっても、トラップの名手に掛かれば嘘のように、ボールの勢いは消えて無くなります。

 

この「どれだけ力を入れても入らない場所」、実在するファンタジー「臍下の一点」の所在を理解すると、物事の見え方や捉え方が一変します。身に降り掛かるストレスも「納めどころ」さえ分かっていれば、ストレスを怖いと思いません。

 

また「勝ちでもなければ負けでもない」「損でもなければ得でもない」、二元性を超越した真実が、この世界には在ると理解します。この「球体の中心」のような一点を捉え続けること、変化を続ける「いま、ここ」の一点に気づき続けることが、究極の安らぎであり「悟りの境地」ではないかと、店主は考えるようになりました。

 

呼気でもなければ吸気でもない「呼吸の停止点」で肛門を締め上げる「ハタ・ヨーガの呼吸法」。二元性が超克される「無限小の一点」への理解が深まるほどに、心の平安は訪れます。