半生で得た気づき
2024.11.11▼常識に背を向ける「てもみ処ひまわり」
ひまわりの店主が半生で得た気づきを、誤解を恐れずに言えば、「一般常識の逆の見解の方が真実に近い」ということです。「世間の常識」というのは、単に多数派の意見か、あるいは「覇権争いの勝利者が、自らに都合の良いルールに改ざんした場合」がほとんどで、別段それが「正しい訳ではない」というのが、この世界の「正しい見方」となります。
真理を求める者は、長いものに巻かれず「犀の一角のようにただ独りで歩め」と、釈迦も言っています。世の聖者を敬い、独立独歩の道を歩む。それが「てもみ処ひまわりの方向性」です。
▼本当に大切なものは目に見えない
まずは「桜の木」を想像してください。皆さまは「桜の木にとって一番大切なもの」は何だと思いますか? 多くの方が、可憐に咲き誇る薄桃色の花々に、心を奪われると思います。しかし、桜にとっての一番は、美しい花弁ではありません。大切なのは、普段私たちが「気にも留めない場所」に潜む、地中深くにある「根っ子」です。
仮に、桜の木が切り倒されたとします。桜は切り株の状態にあっても「根本」さえ残っていれば、幹を含めて、全ての組織が再生可能です。しかし、根を掘り起こせば絶命します。このことから分かるように、本当に大切なものは目に見えない、私たちが「気にも留めない場所に潜んでいる」のです。
人も桜と同様です。本当に大切な、ただ1つ。「生命の根源」を理解できれば、他の全ては切り捨てても問題がなく、返って「自己の本性」は明らかとなり、生命力に溢れる、迷いのない人生を送れます。
「東洋の哲学」というのは、この「木の根元」のようなものです。真理の全てを包括する「純粋意識」。根源的な存在を知ることにあります。
「東洋の医学」というのは、この「木の根元」のようなものです。健康の全てを包含する「根源的生命力」。自然治癒の力によって、あらゆる体調不良に対処します。
▼東洋と西洋、相反する真理
ひまわりの施術理論と実践は【純粋な東洋哲学・医学】を基盤とします。それは「世間の常識とは真逆の主張」を意味します。なぜなら「全を一に統合する働き」の東洋の哲学・医学は、「一を全に分離する働き」の西洋の哲学・医学とは「相反する性質を示す」からです。
▼西洋的探究は「考える」世界
世間の多数派の見解は【西洋哲学】です。その本質は「獲得」にあります。他のキーワードは「分離」による二元性・相対論。「理性」「文明」「科学」。「自我」による「思考」。
哲学の基盤は、ソクラテスの「無知の知」に始まり、「知らない」ゆえ、学問的探究は終わりなく続きます。「アキレスと亀」の逸話のように、真理との距離を縮めるが、決して到達することはなく、歩みを止めることはない。文明的で科学的な「哲学的」真理の探究は、際限なく膨張し、分離し、細分化されます。それらの知識は、言語・数字・記号でもって整理されます。
理性に従うため「客観的」に、物質次元ゆえ「外面的」に、樹木から枝葉が伸びて分かれるように「遠心的」に力が働く。前述した7つのキーワードを含む、最も身近な例は「インターネット」。拡張と分離を繰り返す「西洋的探究」には、終わりがない。
▼東洋的探究は「感じる」世界
一方、世間の少数派は【東洋哲学】です。その本質は「放棄」にあります。他のキーワードは「統合」による一元性・絶対論。「野性」「自然」「霊性」。「無我」による「気づき」。
真理の探究は、あらゆる物質的な繋がりを「放棄」し、精神的な想念を「放棄」し、人間の証である自我をも「放棄」します。自我を失っても、なお世界に存在する、唯一の実在こそ「絶対の真理」です。
原始的で霊的な「宗教的」真理の探究は、理性を超越しているため「主観的」に、精神次元ゆえ「内面的」に、樹木から枝葉を切り落とすように「求心的」に力が働く。あらゆるものを放棄すれば、世界の全ては統合され「ただ1つのもの」へ集約される。世界の根源たる「純粋意識」の存在に気づき、そこに留まる(合一する)。それゆえ「東洋的探究」には、終わりがある。
▼考えるな感じろ!世界は反転する
上記にて言及する「東洋哲学」は、世にいう「聖者の境地」です。聖者の境地は鮮やかなほどに、世間一般の物事の見方とは「正反対」です。以下は、最古の仏教聖典「スッタニパータ」、ヒンドゥー教の聖典「バガヴァッド・ギータ―」、20世紀最大の覚者「ラマナ・マハルシの教え」からの一節です。
・「ある人たちが真理と考えるものを、他の人たちは虚妄と考える」というのが一つの考察であり、「ある人たちが虚妄と考えるものを、他の人たちは真理と考える」というのが、もう一つの考察である。
・聖者たちは、ものごとの消滅を安楽と考えるが、これは世間一般の人の見方とは正反対である。一般の人が安楽と見なすものを、聖者は苦しみと見なす。一般の人が苦しみと見なすものを、聖者は安楽と見なす(原始仏典、二種の観察より)。
・あらゆる生物が夜としているときは、物欲を捨てた賢者にとって昼である。あらゆる生物が昼としているときは、見真者にとっては夜である(神の詩より。以下は解説。物質次元で生活している大衆が「真」と見るものは、真理を体得した人にとっては妄想である。般若心経の「遠離一切顛倒夢想」と同義)。
・ただ意識だけが存在する(それ以外は虚妄である)。
▼この世とあの世、自意識と無意識、緊張と弛緩
先ほどの「西洋と東洋、相対する真理」に、他の対義語を加えると「この世とあの世」「自意識と無意識」「緊張と弛緩」です。
西洋的探究は「この世」の活動。顕在意識(自意識)から発露する「個のエネルギー」は、物質や肉体として凝固する「緊張作用」を生みます。考えれば考えるほど、自意識の働きは強まり、肉体は凝固し、固定観念に捉われやすい。自己と世界との間に境界を作り(自意識過剰な場合は)世界から「孤立」します。
一方、東洋的探究は「あの世」の活動(ここでいう「あの世」は、天国的な話ではなく、大氣のような、目に見えないが確かに存在する現象世界。物質界と並行してある、エネルギーの働き)。潜在意識(集合的無意識)から発露する「全のエネルギー」は、生氣として溶解する「弛緩作用」を生みます。感じれば感じるほど、自意識の働きは弱まり、肉体感覚は液体化(瞑想の極致では氣化)します。自己と世界との間に境界は無くなり、世界と「融和」します。
文明社会で生きる現代人が「心身のバランスを保つ」ため。あるいは「本当の健康と幸福を実感する」ために、最も有効な手掛かりは「東洋哲学」です。物質への執着を手放し、精神を統合する。野生や自然、霊的な感性を磨き、無我による気づきを得ること。
そのためにやるべきことは、ただ1つ「意識を息に向ける」ことです。「瞑想」であり「腹式呼吸」。「息を吐くことに集中する」ことで「新鮮な生氣(プラーナ)」を身体に取り入れます。
東洋の哲学・医学では、物質次元よりも微細なもの、言葉による説明が難しい「見えない次元の背景にあるもの」を中心に扱います。それは中国では「氣」、インドでは「プラーナ」と呼ばれ、ヨーガでは「宇宙の全ての存在はプラーナで構成されている」と、全世界を構成する根源的存在のことを言います。このプラーナを、意識を息に向けることで「肉体感覚としてつかむこと」、体感することが、東洋の哲学・医学の理解を深める上で最も重要なことです。
この働きを物質次元で説明すると、息を吐き切ることで腹部の圧力が高まり、肋骨が上昇します。肋骨を引き上げると、内部で付随する「横隔膜」も並行して上昇。横隔膜は、家の屋根のように、心臓と肺を除く主要な臓器を覆う筋肉です。腹部を意識し、ポンプのような「横隔膜の上下運動」を繰り返すことで、内臓をマッサージします。これにより臓器の働きは活発となり、全身に血液と酸素が巡り、力強い生命力が沸き上がることを実感できます。
ひまわりの施術の骨子は「ヨーガ」、純粋な東洋哲学・医学です。その核心は、私たちが赤子のとき完璧にできていた「腹式呼吸」にあります。意識を呼吸に向ける。ただそれだけを根気よく続けてゆくと、自我の意識が徐々に弱まります。対して無我の意識が強まると、ある日、自我よりも大きな意識。意識の意識、純粋意識。地球から太陽へと世界の中心軸が変わるような意識の変換が起きます(学術用語で実存的変容)。この潜在意識が主体性を持つ状態において、人は生命の根源である「宇宙の根っ子」と、繋がる感覚が得られます。自我よりも大きな意識に委ねることで、肩の力は抜け、心にゆとりのあるライフスタイルが可能となります。
▼東洋の本質と世界平和
東洋の哲学・医学の本質は「全体性」にあります。そのことは「世界平和の実現」に例えることもできます。世界平和にとって、最も有効な手段は「国境という概念」を棄てることです。また、日本や韓国、アメリカ、中国といった国名、名称も放棄した方が、世界平和の実現へ前進します。
東洋の哲学と医学の根っ子は同じく、最も大切なことは「自己が全体の中の一つだと感じられること」です。心も身体も、発する言葉も、行動も、全てが一つの繋がりだと感じられるかどうか。その「体感・主観」が「感じる世界」の理解の尺度となります。
▼この世とあの世は表裏一体
一昔前、一世を風靡した錬金術の漫画に「一は全、全は一」という真理の言葉があります。その出典は「バガヴァッド・ギータ―」にあり、ギーターでは、「物質次元と霊的次元。相対する真理の働き」は「コインの表と裏」のような関係であり表裏一体。結局は「同じもの」とあります。
※コインの裏表は、それぞれ別の面を向いていますが、背中合わせで「表裏一体」。
「無差別平等の世界観」は、霊的次元の極みに達した聖者の見地であり、常人の物質・二元の立場から「相対する真理」を「同じ」と見るのは無理筋です。しかし、17世紀の西洋の哲学者であり数学者、合理主義の祖であるルネ・デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と発したのは、西洋の合理的思考から、霊的次元の真理(疑うことのできない実在は意識である)に到達した稀有な例だと思います(自我から無我の境地の真理を導く)。また「相対性理論」で有名なアルバート・アインシュタインは「今、現代科学の求めるものと合致する宗教があるとすれば、それは仏教であろう」と述べています。
ただし、歴史を顧みるに、理性と霊性、どちらの側面からも真実である「絶対の真理」の発見は、人智を超えた才能を持つ者が、全生涯を探求に捧げて、さらに奇跡のような体験が起こり、生涯に1つ成し得るかどうかの神の所業であり、東大やハーバード大を卒業できる程度の天才や秀才にさえ無縁の話です。
芸術では「ミロのヴィーナス」が、獲得と放棄、西洋と東洋、表裏一体の美の本質を備えた「絶対の美」を私たちに教えてくれます。
【当店の理解を深めるリンク集】
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▼てもみ処ひまわりの方向性
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▼水戸黄門に学ぶ人間社会の真理
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